2019年11月08日

野党「鬼の首をとりました」

野党「鬼の首、とったどー」
共通テストの予算委員会質疑。
おっそーい。もういつから言ってると思ってるのよー。
そして野党議員がこっそり萩生田君に一言。
「ネタ投下ありがとうございます。」

ニュース見てたら野党議員を寒い目で見てしまう。

ちなみに前回記述式の問題点の話はしたが、大方記述式は、文章の該当する、ここと、ここと、ここに線をひいて、それを問題の指示にあうよう組み立て、解答欄に合わせて記述する、それが記述式の「作業」なんだよね。ある程度読めるという前提の元にこの作業の練習をすれば満点に近い解答が書けるようになる。
選択肢はそれより二段階ぐらい作業を省けるので、選択肢より記述式の方が難解な感じもしなくもないが、意地悪い選択肢の方が難しいことも多い。ただしセンター試験レベルではそこまで難解な選択肢はない。
この言葉を借りるとセンターの問題レベルでわざわざ答えというか採点が揺れるものをやる意義がわからない。で、短時間で大量に採点するから、採点者が大量にいるし、採点者の技量の程も問題になる。例えば高校時代の私のようにひねくれて文章にやたらプライドを持ってた高校生だと本文の語と同義語を使って使用すべき表現を使わず正答を作ったりする。要するに落ち着いて解答を検討してやっと正解だとわかる答えを書くのもいる。
ただ前も書いたように、センターレベルだから、易しいし、画一的な答え練習をすればいいだけで、その採点しやすいように作った画一的な記述なんてひねった選択肢問題よりよほど易しいと思われる。
やる意味あるの?
だいたい大手予備校で模試採点した時に全体の採点者のミス率(三段階ぐらいチェックしてる)が一覧で出されたけど、ひどいことに最高のミス率で(書かない方がいいか)
さらに最後に採点した高一模試では、大学生のアルバイトらしきが採点したものをチェックしてるらしいんだけど、チェックで間違えてるとあがってきたのが「お前自体が元の文章も採点基準も読めてねーよ!」というもので、…それが嫌でもう採点者はするまいと思ったんだけど、
どうするの、そういうの。
高一レベルの易しいものでさえ、画一的解答の練習をしていてさえ、判断に迷ったり基準が揺れたりする微妙な答えって実はいっぱいあるんだよ?
1日で一人300枚かかる。一体何人雇うつもりなんだろう。

私なんぞが書かなくても大手予備校の先生がご存知だと思う。ちょっとは問題点を洗い出しなよ。
しかしあの鬼の首とったような質疑には呆れたわ。二年遅いわ。もうちょっと冷静に質問してほしいわ、見てる方が恥ずかしい。
posted by さきはなきよら at 22:52| Comment(0) | 日記

2019年11月03日

そういえば石破さんって…

 そういえば石破茂さんって人いたねえ。
 何してるのかしら。安倍政権で何かしてるっけ?
 永田町界隈では知らないけど、すっかり影が薄くなっちゃったわ。
 やっぱ大臣やってないと存在感ないわよね。
 総理になりたい人たちは、もしかしたら大臣の仕事もせず地方回りか何かしてんのかもしれないけど、大多数の国民から見たら、総理大臣になりたい私欲に走って、国民のために働ける地位にありながら、ちっとも働いていない印象がある。令和おじさんというだけでなく、菅官房長官が目立つのも必然かと。

 ところで英語の民間試験導入が延期された。
 萩生田文科相の「身の丈」発言があって、「まあでも、『身の丈』とかいうけど、それに怒るのはまだ受験できるかどうかという間際のところにいる受験生であって、学力があっても大学なんて行ってられないと就職を目指す子もいるもんなあ」なんて考えていたら、民間試験導入延期。
 テレビの前で「萩生田グッジョブ!」と叫びそうになった。
 雨降って地固まるっていうの?
 そもそもどこも英語に力入れすぎなんだよ。英語さえできたら入試で国語要らないところがある。一定ランク(関西では産近甲龍)以下のところは漢文はおろか古文さえ入試科目にすら入ってない。日本の中学の英語がアメリカの小学校低学年レベルの国語だが(中学の英語の授業を廊下から歩いてチラ見したらそんな感じだよね、ゲームしたりして)、日本の大学入試の現代文は偏差値50ぐらいを境に公立高校入試レベル(もしくはせいぜい高一)にまで落ちてきている。少子化で生徒の取り合いなのもあるけど、もう一回国語のレベルも問いなおすべきなのではあるまいか。
 人生でネイティブな英語いる人ってどれだけいるの?
 要る人は要る人で学校以外のところでも必死で勉強してしゃべれるようになってない?
 観光客相手ならもうすぐスマホにリアルタイム翻訳機入りそうだし、あれだけ躍起になるほど必要なのかしらん。それで高校卒業するころに米国で小学校卒業レベルの英語に到達したとしてよ、それをどれぐらいの人が人生で使うのよ。
 むしろ国語の教師としては著しい国語力の低下を憂うわ。
 それでなくても記述式の導入とかいうし。記述式って採点したことある?結局大勢を採点するから採点基準が設けられ、採点基準を元に指導していくので画一的な答えになってしまう。これじゃあレベルの落ちた選択肢練習と変わらないじゃないか。

 話は変わるけど、以前府立のY高校という旧学区二番手校にいた時にディペートをやらせたことがあった。調査に二時間、打ち合わせに二時間、討議に一時間。
 みんな発言しない。
 なぜか。
 あとで録音しているものを聞き返していて気が付く。
 一つ目の理由は「はにかみ」。つまり日本人としてのシャイな国民性が大きな原因。しかしこれを打ち消そうとすると、日本人としての特性も失われてしまいかねない。
 二つ目の理由は「知識のなさ」。語るべき言葉がない。語彙力と、知識の問題。
 この時のディペートでクラスから敢闘賞もらった一位二位は、普段はそんなにしゃべる子ではない、というか、どちらかというと大人しめの子。でもその議題に関しては普段から興味をもってよく調べ、ものを考えているというのがきいていてよくわかる。
 語りたいという思いに堪えかねて語っているという感じだった。
 語るべき言葉や思考のないところに発言も記述も生まれないし、まして知識があって普段からものを考えていなければ、自分でものを考え問題に立ち向かうための助けが何かということにさえ行き当たらない。アクティブラーニングはアホティブラーニングだと普段から言っているが、私も昔は授業の手を抜くために班学習や調べ学習や書き物はよくやった。教師の知識と話術が低ければ低いほど、よく助けられる授業方法だろう。アメリカではすでに失敗と出て、日本がかつてやっていた詰め込み型教育に移行している州もあるというが、なんでそれをわざわざ導入するのかよくわからない。
 記述によってそのテクニックを学ぶことで、画一的思考教育を推進したいのか。こんなもので自ら学び考える力なんて出てくるとは私には思えんわ。これだけ文章書く私が、まず中学校の時の準備、そして高校になって小説を書き始め、まず困ったのが語る言葉のなさ、つまり語彙力のなさ。知識はそれまでにある程度敏感になって「ネタ探し」と称して、入れようと新聞を読み、小説以外の本を読みと努力はしていたし、思考力については、最後まで話をつなげるのは筋を通すための論理性だと気がついてからは中学生からは論理ゲーム(疑問に思ったことの、答えがあるものを答えをあえて見ず、筋道を立てて考えることで答えを導き出す遊び。たられば遊びに近いかもしれない)をしていたけど、とにかく語るよりも表現するよりも、まずもっと読んで、知識や言葉を身に着けないと、ツイッターや普段のおしゃべり程度に使う幼稚な言葉を授業中にふりかざし、文章にするだけで終わってしまう。時間の無駄。中学高校程度で何か有意義なものを書き、語れる語り合えると思っているなんて厚かましいというか、いかにも十代に書きものをしていない連中の浅はかな考えだと思う。それを成すには、学校でならうことの授業内容をある程度捨てるぐらいの時間をかけて当たらないと「表現する」なんてことはそう簡単にできるものではない。
 あの記述式優先の統一試験は何とかしてほしいね。京大阪大の上位校ではすでに記述式じゃない。そんなことする前にどれだけ底辺であろうと、せめて大学生になろうかという連中の読解力の最低ラインの底上げをしてほしいわ。
 

 東京オリンピックのマラソン開催地が札幌になったとか。
 東京より札幌の方が平均気温は五度低いが、日陰が少なくて体感温度があがるらしい。選手の皆さんは大変だ。
 そもそも東京開催でないということは今までかけた費用等の問題もあるかもしれないけど、東京の街を上からも横からも映さないのでせっかく東京の街を世界に紹介できるのに、その観光イベントとしての機能が失われてしまうことになるよね。その損害ってどれぐらい? 後に市民参加で記念マラソンやるってIOCは言うんだけど、そんな時期の外れた、素人いっぱいのレース誰が見るねん。
 思うんだけど、いっそのこと東京の会場でもマラソンやっちゃったら?
 「東京オリンピック記念マラソン」。オリンピックの選考で外れた一定タイム以上の選手を世界中から集め、棄権するのももちろんOKで同日同時刻に行う。当然中継も入れ、オリンピック公式戦ではない公式レースとして行う。開催地のマラソンが他でやるのが初めてというなら、そういう異例のこともあったっていいじゃん。そしたら警備も宿泊地もボランティアもチケット代も無駄にならない。もしかしたらその暑さ対策でしいたアスファルトの効果実験になるかもしれない。
 問題は誰が主催するかってことなんだけど。
posted by さきはなきよら at 13:38| Comment(0) | 日記

2019年10月22日

女性天皇の必要性

 一昨日、大阪府藤井寺市にある葛井寺で秘仏開帳があるというので行ってきました。
 なんかありがたかったです。(なんかってなんだ)
 で、その説明ビデオとして歴史街道の録画が裏で流れていたんだけど、そういえばここも聖武天皇が…。

 花山院が西国三十三カ所の礎となったために、去年花山院はたいそう身近に感じられたが、行く寺行く寺の解説で聖武天皇の御名を耳にする。琵琶湖の竹生島に向かう時ですら、その船の中の解説で、聖武天皇の名前を聞いた。
 聖武天皇が日本史上で一番大きく取り上げられるのが、大仏造営だったはず。ところが大仏造営のみならず全国国分寺の建設、国分尼寺の建設を詔(みことのり)した天皇でもある。故に諡(おくりな)に「聖」の字が入っているのだと思うけど、(梅原猛『隠された十字架』の中で、不幸に見舞われた天皇はすべて「徳」の字が入れられていると読んだ、たぶんそれと同じ理由で)聖武天皇がなぜここまで仏教寺院建立に尽力したかというに、やはり最大の原因が天然痘の大流行と言われている。
 日本史が得意な人には今更な話かとは思うが、この時の天然痘の流行で、死者が推計110万人から130万人、800万人程度しかいなかった日本の人口のおよそ25%〜30%にあたる人口で、現在なら3000万人ほどの死者が出たということになる。
 天然痘という認識も治療法もない時代にあって、天皇がどうやってこれを解決しようとしたかというと、もう仏にすがるしかない。しかもこれが長屋王の変の長屋王の祟りと考えたものだから、あらゆることを実行に移し、遷都もしまくった。ちょっと功を奏したと思った時期もあったらしいが、しかし天然痘の流行だけでなく、火災、地震、飢饉とやってきて、科学・医学の発達していない時代にあってどうしようもない所をなんとかせねばならぬと腐心した天皇でもあった。
 まさかここに生まれきて即位せねばならなかったという気の毒な天皇の一人であったとは思う。しかもこの前が二人の女帝に中継ぎしてもらってまで即位した天皇なだけに、その事績を思うにつけ、なんか気の毒で仕方がない。
 重臣はじめ、ばったばったと民が死んでいく現状を前にして、眠れぬ夜もいくつ過ごされたことだろうと思う。

 で、女帝の話を出すために聖武天皇を出したわけではないのだけれど(ただ単に聖武天皇のことを書きたかった)、この聖武天皇につなぐために二人の女帝がいる。元明天皇と元正天皇である。
 つまり歴史上で女帝が誕生したのは、こういう時なんだよね。「政治的に」「つなぐ必要が生じて」「他に『つなぐに相応しい』人物がいない」から。他の男子はいるが、そちらに皇位が流れても困る、かといって「今」該当の皇子に即位させるわけにはいかない。
 世間では当然のごとく、敬宮様の皇位継承について発言しているが、秋篠宮家が嫌だからとか、天皇の素質とか、そんな理由で歴史の流れを変えるわけにはいかない。まあ歴史の大局から見れば、「そんな些末な理由で」ということになってしまう。しかも男系男子がちゃんといるのに。
 そしたら「男女同権の時代に」という話を持ち出してくるかもしれないけれども、「男女が分かたれても仕方のない部分」というのはやはりあらゆるところにあり、大相撲に女性が登場することは永遠にあるまいし、助産師に男性が登場して激しい拒絶を起こす女性も多かろうと思う。故に「男女同権」という理屈も却下されるので、結局は、女性天皇はありえない、という話で収まっていくのだと思う。

 ここから先は私見で、読んでいるあなたと意見が違ってもご勘弁願いたいのだけど、「男女同権」とか「女性活躍社会」とか、本当にどれだけ功を奏していると政府や官庁は思っているかと思う。朝の出勤電車なんてみんな男ばっかりだぜ?若い女性はまだ多いけど、三〇代後半以上なんて探さないといない。まして50代なんてわずかしかいない。で、そのたまにいる女性も「公務員かしら」「学校の先生かしら」という風情で、会社員ははたしてどれぐらいいるのやら。
 先日派遣会社に行った帰りちょっと寄り道してフェスティバルタワーの地下を雨よけに歩いていたら、ちょうど昼休みに差し掛かったんだけど、男、男、男。女子ちょっと。一流企業が多いこの界隈でこの状態なのか、こりゃ男女同権なんて夢のまた夢だと思ったね。
 そもそもまず女子が上を目指さないというのもある。結婚するとき男子が敬遠するから。女子が好む仕事というのもある。それが上場企業への就職を妨げている例もある。またそういう企業に就職したはずの人たちも昇級しておらず、多く会社を辞めている。なんでかというと、昇進が同期の男子から置き去りにされる(うちの近所の子の例)か、きつくて辞めざるを得ない。
 政府や官庁は産休を増やせば女子は子供を産んで勤務を続け、そのまま働き続けて男女同権になり子供も増えるとかいう「夢」を見ているみたいだけど、それは普通に「夢」でしかない。育休も2年じゃ足りない。男がとればいいってものでもない。だいたい待機児童問題なんてなんで生じるかというと、いったん辞めて復帰できるシステムがないから。五年仕事を辞めて空きがあれば同じ職種の正社員に入れるというシステムがこの国にはない。五年他の部署に行って帰って来たり、官庁に出向してもまた戻ってきても、会社の仕事はできるのに、五年家庭にいて帰ってきたら仕事ができないという迷信がある。最初に入った会社が合わなければ他に移るとか、頭が棒になるから新鮮な空気を求めて転職とか、他の国のように「この会社は五つ目だよ」なんて平気で言うような土壌もない。
 話はそれたけど、中途採用やら復帰制度の常態化へ向けての話は今はおいておいて、その育休システムに代表されるように、まず女子が働くシステムが整備されていない。声を上げようにも声も上げにくいし、声を上げても賛同する女性がそもそも上司にいない。また、女子をその女性故の働き方をという発想もないし、仕事故に妊娠すらできないという環境の現場もある。要するに女性を尊重し迎えようという声もシステムもあまりになさ過ぎて、たとえ声があってもレフトな大学教員のおばちゃんが偉そうに言ってる程度の認識しかない。
 だからやるべきことは二つある。
 システムの改善と、意識の改革。
 会社の中の女子とみて、まず顔だ、スタイルだ、家事ができそうかとか、そういう目でしか見てないのは実は若いのにも結構多い。一人の能力ある人として見る意識を培うのは、もっと女子への職業者としての意識を高めなきゃいけないんだよね。でもそんなのいつ実現するの?という感じで。
 で、今いる若い女子たちが頑張って昇級できたとして、そして会社の中の女子の扱いを変革できたとして、それっていつの話?
 しかもできたとして、だし。
 女性の総理大臣なんておそらくあと百年経っても私は出てこないと思う。
 「女帝」の必要性ってここにあると思うんだけど。
 面倒なのでかなり飛躍しているけど、要するに「意識改革」で、またとないチャンスだと思うんだけど、「女帝」。アメリカでさえ女性大統領ってまだ誕生してないわけだけど、そんなのを待たなくてもトップ(というには語弊があるかもしれんが)に女性を据えられるチャンスなんだよね。当然、敬宮様には恋愛結婚かどうかは別として結婚していただいて、恵まれるなら子供も産んでいただき、産休育休を取得して、復帰していただく。「女のくせに」とか「女だからな」とかいう言語を男性たちから消していく一つのチャンスじゃないかね。ヤフーのコメント欄を見ると「お嫁に行って自由になっていただきたい」とかコメントしている人いるけど、果たして天皇の長女が嫁に行って自由になるかい? あの大きなお屋敷で暮らしてきた人がマンションの一画で過ごすことは、私は誤解を恐れずに書くなら「落ちた」としか思えないのだけど。かつての皇族の女性たちは見合う嫁入り先がなければ一生独身で過ごされたらしいが、それはある意味正解なのかなと思ってしまう状況があるよね。そもそもあの身分の方が恋愛結婚というのはかなり厳しく、その家に生まれついてしまったさだめというのはどうしても抜けられないことがあると思う(ということを認識すべきだと思う)。それは皇室に限らないことだけど。
 「男女同権」とか「他の外国はそうだから」とか、そんな軽々しいことじゃ日本の歴史は変えられない。つまりそういう文脈で、社会のかなり重いところの意味合いで必要だと、国民の側から声を上げないと。邪馬台国のイヨが女王におさまったのも、国が大いに乱れた必要性からもう一度女性を王にと望まれて女王になったわけで、何かそういう重たい理由がないといけない。
 ということで、私は「女系」には反対だけれども、「女性天皇」には賛成する。そういう人も多いと思う。
 折しも、現状秋篠宮家の悠仁親王が継いだとして、悠仁親王に男のお子が生まれなければどういうことになるのか、という話は出ているわけで、昭和天皇までは側室腹だったけれども今はそれも不可能なのだし、必ずしも次は男性天皇でなくてもいいという気配はあるんだよね。そしてお子が生まれなければという文脈で、男系男子の必要性から結局は宮家をどうにかしないといけないと。後継ぎの重圧から解放するという意味でも。それで旧宮家の復帰となると問題なのが「税金がー」っていう人たち。宮家が増えればその分経費がかさむ。だったら現宮家に旧宮家から家族養子に入ればよろしいのでは。うちの先祖は母方の母方が親戚筋の家族養子の家なので、一般では普通に行われていることなんですけど。中に政治家を志す方々がいらっしゃればそれも厳しいかもしれないけど、それ以外ならできるのでは。万世一系の重みって捨てられないし、天皇制を廃止するなんて日本の文化に即せばありえないという文脈で考えれば、そりゃなんとかせなばならんと思う。そしてこの流れの中で女性天皇というのは、もしかしたら近現代に至って最初で最後のチャンスかもしれない。皇室典範を男系男子の男子を削除した上で、長子を後継にする、でいいんじゃないですかね。故に女性は一代限り、ただし男系を継ぐ見込みのある場合はその限りではない、的な。
 でもそれは国民の側から、歴史をひっくり返すに足るだけの大義名分を、大きな声で掲げなきゃ、実現しませんよ。それでなくても政府も官庁も男ばっかりだし。

 ちなみにいいかげん宮号があるのに「愛子様」というのはよしていただきたい。一般からお嫁入りした人でもないし。「敬宮様」それが嫌なら「女一の宮」(こっちの方が問題か)でお願いできませんか。本来本名で呼ぶのって失礼じゃないの? 幼い頃は親しみを込めて宮号を使わなかったんだろうけど、せめて成人されたら宮号でお願いしたい。「秋篠宮」を誰も文仁様なんて呼んでないじゃない。差別しないで。
posted by さきはなきよら at 12:51| Comment(0) | 日々雑感

2019年10月13日

『箱の中』自注

 『箱の中』は堀川成美名義で1999年1月付で書籍発売し、2016年にキンドルストアで電子書籍として発売した作品です(執筆期間については作品一覧でご確認ください)。したがって、ネット上で無料で読むようにはしていません。(図書館によっては入っています。)
 ちなみに電子書籍版は十四章を、内容を最初の予定だったものに書き戻しています。
 アマゾンのキンドルストアで出した後、他の電子書籍で…と思い、そのやり方を勉強しなければと思い、早3年。ただ、「カクヨム」さんの方では比較的簡単に電子書籍化できそうなので、そっちでできるかなと思い…。そうすると必然的に値段は落とせますかな。
 このキンドルストアで出す時に、紙書籍を出した東洋出版さんに出していいのか尋ねたところ、「多くの人に読んでもらってください」ということで、どうでもいい感じがした。名義変えて発行しなおしても、特に権利がどうのといわないのね。

 この『箱の中』はネットで検索すると「中年と幼女の話」の中に入っていて、はあ?私年齢設定入れてなかったっけか?と思って本文をもう一度確認したら、やはり第一章に男性の側を「享年三十一才」と書いているし、女子が高校三年生で、当時男性は「二十九才」と書いている。二十九才って中年かい? 十八才って幼女かい?
 年齢差十一才は、離れているけれども、珍しい年の差でもない。これ書いた人、ちゃんと小説読んでいるのかしら。
 おそらくこの人は書籍発売とホームページ立ち上げの時に、ホームページ荒らしを企んでロリータ系サイトの掲示板に「隠し入り口探してね」と書き込んで嫌がらせを企んだ人だとは思うんだけど、そもそもが読み落としているのに、さらに荒らしとか、正直なところ、どんな人か見てみたい。
 掲載されているOK webに違うと申し入れしたのだけど無視された。無視するんだなあ。
 「ちょっとありえない話」なんだけど、リアルに起こったことと勘違いしたのか。ちなみに私の小説はオールフィクションでございまして。ただ名前はよく実在人物に借りていることは多いです。この作品の中に出てくる「白石幸」も、本来は…もう書いていいかな、恐らく結婚して名字も変わっていらっしゃるだろうし――白橋美樹(みきの字は違ったかも)さんという他校の友達がいてですね、その彼女に「きれいな名前ね、使っていい?」と許可をとっていたのですが、キャラがキャラなのと、コードとしての理由から、若干もじり白石幸にしたというものです。

 今閉じているツイッターに書いたのは、作品の中の月が出てくる場面についてです。本来中庭のある二棟式の教室からは、相当窓に近寄らないと月は見えない、と、書いたのですが(実際その通り)、登場人物の菊川がどこで月を見たかというのが本当は問題とされるところで、私自身は彼がショックに打ちのめされた帰り、公園かどこかのベンチに深夜まで座り込んでいて見た…という想定で書いていたはずで、実際の現場には月が見えなくてもあんまり問題はない。(もちろん想像していても問題はない。)
 精神的に混乱してきているし。
 ただ読んでいる人のイメージの中では見えているかもしれない。
 あと、「事件」の場面は、ものすごく細かくのろのろと描写しているので結構な時間が費やされているような錯覚があるかもしれないけれども、実際はそうでもない。
 それから、あの話全般に言えることですが、特に日記の中は、読む人によってその想像が違うように書いているということで、たぶん「事件」のシーンは小学生が読んだら何をしているのかわからないように書いたはず。場面は校内ということで、読者の皆様におまかせという、逃げというならば逃げかもしれないが、作品への非難を免れるというのも目的として書いている。
 「あなたの想像におまかせってことで、そこまで書いていません。」
 一つの文章に対し、人の想像って実は大きく異なるんですよね。
 たとえば文章ではないけれども、寺山修司の歌「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり」という歌があるんですが、これはなぜ「両手を広げてい」るのかという設問で、通説では「少女に海を教えてあげている」んだけど、別説があって、「通せんぼしている」というのもあります。海へ向かう途中、少女が海を知らないと言ったものだから、見せないといってふざけてじゃれているとも読めるというのですな。ところがこれを、「高校生の時に詠まれた歌の中にはいっている」という解説をした後で生徒に答えさせてみると「海を知らないという幼さに『かわいい』と抱きしめようとしている」。その逆で、「海を知らないという貧しさに『かわいそう』と抱きしめようとしている」、また別の意見に、「水平線」、「見せないように手を広げている」などといろんな「想像」が上がってくるわけです。で、その意見を「不正解」にしてよいものやらどうやら…。
 人というのは様々な人生の中で、それぞれの違う経験でもってものを読みます。まっさらで作品の世界をたどるというのはなかなか難しい。山、がけ、一つとってみても、人生の中で見たものを基準に山やがけを想像しながら進むので、隣の他人と同じ情景を想像しているとは限りません。詳述しているのなら、ある程度は似通ったものが出てくるかもしれませんが、詳述してないとそうはいきません。あえて自由に発想してもらうために肝心のところを詳述しない場合もある。私のように。谷崎のように。
 故に「実話に基づいた感動のストーリー」なんて触れ込みがありますが、実際本人が見て体験したものも、他の人の脳内に入れば全く違う描写になっていくので、もうその時点でフィクションとほとんど変わらない現象が起きていることになるってことです。
 「実話は、本人の手を離れた時点でフィクションになる。」
 …という感じで、作品の世界を書いているので、読者の自由な想像にはまかせている、けれども、それはあなたの「主観」をともなった想像の中の話であって、私はそこまで書いていないので、まして誤読や読み落としに至っている場合にはどうしようもないので、それで私というか作者を攻撃するのはどうなのかなとは思いますね。上のサイト荒らしの犯人さん。
 別に学歴関係なくこういう「主観読み」はよくあるんですけどね。国立大の○大オープン模試なんて採点していると、小説の解答の中に「そんなことは設問にはなく、どこにも書いてないし読み取るのは不可能なんだけど、この子の想像の中ではこれが出てきちゃったのね」というのはあります。実際そういう想像もありかなとは理解できるけど、それはどこにも書いてはいない。自分の主観で勝手に付け足している。よくあります。問題はそれで人を攻撃してしまうということで。
 
 『箱の中』そのものは、発想から書き始めまで結構な時間を要した作品で、最初は一人称の「私」の語りを入れることを目的とした心理サスペンスで始まったのですが、日記かな、手紙かな、と思いながら書き方を探っていました。間、「視点をどこにおくかの問題」で一度行き詰って筆を折り、そのうちに谷崎潤一郎の『鍵』に遭遇し、宮本輝の『錦秋』に遭遇し、「うーん、みんなやってみたいことは同じなのかなあ」と思いつつ、あの設定に落ち着いていきました。
 そこからオウム真理教事件で井上嘉浩元死刑囚が学校のことをマッチ箱に例えていたところから、表面的なテーマが確定したという感じですかね。閉塞し心が失われそうになる時代を反映しつつ書いたので、今(令和元年)に読んでみると、たいへん衝撃的な内容にも思えるかもしれません。(当時もそうかも。でも既にドラマで『高校教師』とかあったしねえ…)
 これも『時をはらむ女』と同じで、記号論をバシバシに放り込んだ小説だったはずで、そういう作品はおおむね「よく考えたらありえない」小説になりがちかなあ…。

 三年前に電子書籍化するときに読み返していて、白石幸の描写、やはり白橋さんと被る。白橋さんは正直なところ取り立ててかわいらしくも美人でもないけど、身長とか髪の毛とか全体の感じとか…ああ、ああ、ごめんなさい、と読み返していて思いました。
 私の作品史上一番苦手なキャラ。書いている途中に何度か殺意を覚えた。
 あの作品で作者として求めるところがあるとすれば、菊川を追い込んだのは白石だけではないということ。「あたしじゃない」の台詞は、真実だったりする。一人称の会話で見えにくいけれど、誰だって加害者になりえる。もし読み返す機会があるのなら、そこを読み返していただきたい。

 ということからしても、作話の時期(平成2年ぐらい)からしても、ストーカー氏が菊川のモデルではないってことです。本人は自分と思い込んでいるかもしれませんが、モデルはいません。作家論的な解釈の時代に高校生だった人だから、そう読んでも仕方ないところだけど、小説というのは作文ではないんですな。

 この小説は男性が読んでたら腹が立つかもしれませんね。
 谷崎潤一郎の『痴人の愛』は、当時女性雑誌に連載されたときは「大好評」で、でも現代の男子学生が読むと「すごく嫌な感じがする」のだそう。私は全然気にならないし、でもあのナオミに憧れるわけでも、その行動をよいと思うわけでもない。
 しかし男性が反感を抱くからといって、それを認めないとか攻撃するってのもどうかと思う。
 それでなくても今小説の読者は女性の方が多い。この『箱の中」を書いていた時もそう思っていた。しかし編集部は圧倒的に男性が多いので、どうしても男性よりになりかねない。この『箱の中」を書いていた当時も、男性編集者は女性作家に「もっと自分をさらけ出すように」と要求することがある、と読んだことがある。
 違うだろ。
 むしろ、男性作家が書いた小説のつまらなさは、恋愛描写と性描写の淡泊すぎるところ。ロボットみたいだから、その反動としてBL作品が隆盛したのだと思う。あれは女子たちが攻めと受けの一粒で二度おいしい形式だとは思うけど、そういう不満が通常の小説で解消されていれば、あそこまで隆盛がおき、今も続いていないのではないかと思う。
 実際読書ノートを点検している近年でも、高校生の読むものは、女子は圧倒的に小説が多いけど、男子はハウツー本や伝記(自伝含む)に偏りがちで、小説の読者は圧倒的に女子が多い。

 もしまだ男性が『箱の中』を読んでなくてこれを読んでいるのなら、男性は読まない方がよいのではないかなあ。
 意外性を楽しめず、攻撃されても迷惑だし。
posted by さきはなきよら at 13:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 創作余談

2019年10月08日

『時をはらむ女」自注

 ツイッターに書いたことなのに非公開にしてしまったがために、読めないものをブログに移そうと思いつつ早何か月…。
 そのツイッターの中で、現実に起こったものをそのまま映しているものは私の小説にはない、オールフィクションだと、書いたのだけど、『霧中』を読み返していて気が付いたことに、冒頭の葉子と恵理の編み物に関する会話は、ほぼまんま、当時の私と友人の会話だった。関西弁に改めたらほぼ全く同じ。
 そう、あの頃はまだ小説の書き始めで、こういう場面はどう埋めたらいいのだろうと、私と友人の放課後の会話をまんま書き込んだ記憶がある。
 今だと相当違うのだろうな…。
 読んでみると嘘くさいでしょ?
 でもあれがリアルなんですよ。リアルの高校一年生。

 さて、閉じたツイッターに置き去りにしたネタ、『時をはらむ女』自注。
 えー…本文から写してくるのは面倒なので、主なことのみ書きますと、あの作品は二十二歳ぐらいの女性と、小学校高学年の男子の物語です。間違えてもあそこに描かれているのは、二十二歳の女性と、三十や四十や五十代のおっさんおばさんとの物語でも会話でもありません。
 それと私の身に起こった実際のことではなく、実際のエピソードも一つも入れてはおらず(お父さんの木のモデルの木はあった)、まして私が作文を書いているわけでもありません。オールフィクションです。したがってあの作品の中で島木奈美という女性が出てきますが、彼女の行動や台詞は、物語中の彼女が歩いてきた人生の中から発している、行動であり台詞であるわけです。
 ちょっろっとだけ説明しますと『時をはらむ女』とは、『花嵐』『時をはらむ女』『つはり』の三部作を予定していた、その真ん中にあたりまして、『花嵐』が奈美の結婚前の話になります。彼女はいわゆる継母がいて、継母と不仲でして、好きな人がいる傍らお見合いして結婚して…という経緯をたどります。
 この三部作、いつ書かれるんでございましょうねえ。
 「絵のような小説を」、これが『花嵐』の目標だったなあ…。
 
 それでこの『時をはらむ女』で問題の台詞がございます。皆さんみんなここでひっかかられる。特に女性、特におばさん、特に国語の先生が多い。「本当の恋」という単語が出てくる台詞でございますな。私があの台詞を書いた時は、二十二歳の経産婦が、小学校高学年の男子に「はらまして責任とれるだけの覚悟がないんやったら、やるな」という意味合いで書いたものでございまして(え、そう読めるよね?)、でも奈美二十二歳としてはまだ恥じらいもあってそこまではっきりとは言えず、しかも相手の男の子があまりにも子供子供しているものだからどこまで成長しているかも見極められず、言った台詞でした。
 私自身はあまり作者自注てやりたくないんですけど、記号論(というものと当時は知らなかったんだけど実際そうだった)の試みとしてあの小説を書いていたので、「時」の、暗号を解けない人が読んですぐに納得できる程度の別意が用意できればそれでOKだったわけです、あそこ。
 ただね、「本当の恋」という単語がかなり重いのではないかと思ったりするんですな、後から考えると。

 なんで今日これ書こうかと思ったかというと、NHKの「うたこん」という番組で、デーモン小暮と岩崎宏美が会話してて、ふっと当時のことが頭によぎってきたからなんですけど、確かあの小説書いてた頃って世の中が結構退廃してましてね、「キッスは交わしたけど名前も知らない」なんて歌詞の曲が普通にヒットするような風潮があり、それを私は苦々しく思ってたわけですな。
 もっと本気で恋愛しろよ。
 そんな感じ。
 つまり「本当の恋」というのは、その対としてあるべき「恋」として選んだはず。もしあの台詞に私の考えが影響したら、それはそれだとは思う。作文じゃないから自分と全然違う人生の登場人物に、自分の考えを言わせたりはしないけど、そりゃ影響はするでしょう。したとしたら、それ。
 しかし、当時のあの退廃しきった世間の恋愛事情は、バブルがはじけてHIVが流行しオウム事件が起こって収束した感じはします。
 
 それでは私自身は「本当の恋」についてどう思ってるのかと?
 いや、この当時とあんまり変わらないのじゃないかしら。
 どう変わらないかというと、人によって場合によってその基準は違うってことです。
 台詞の中の奈美さんは、自分の人生に即してこの台詞を吐いた。「私がはらみたかったのはこの人の子供と違う」だっけかな?
 大方「本当の恋」なんてものを絶対的なものとして定義してしまうと、あちらから違う、こちらから違うと声が上がってくるのではないかと思う。そりゃ当然だと思う。なぜならそういう相対的なものを含み持つ単語だから。
 だから奈美の台詞を是と出来ない人がいても当然といえば当然。
 
 ちなみにあれは私の考えではないので。
 え、で、自分にとっての「本当の恋」とは何か。
 書いてしまうと、私の作品の恋愛ものを読む時に障りませんか?
 ってことで書かないということで。

 ナンセンスですよ、「本当の恋」を絶対的なものとして扱って、誰かが定義づけてしまうなんて。
 それはやはりきっと、ある時ふいにそれぞれが「これが本当の恋だ」と思うものなんですよ。それはリアルでかもしれないし、物語の中で出会うものかもしれないけれど。

※『時をはらむ女』のページから後日リンクを貼るので後日若干書き直しが入るかもしれません。
posted by さきはなきよら at 23:55| Comment(0) | 創作余談